人がいう「みんな」って「ワイドショー」じゃない?
「みんな言ってるよー」って言う言葉。
大っ嫌い。
「みんな」と言えば、自分の言っていることに、確証性が高まるとでも思っているのか。
逆に、「自説に確証性がない」のを必死に補完しているようにしか聞こえないぞ!!
もしくは、感情論に、さも現実味がある様に仕立て上げようとしているようにしか聞こえないぞ!!
「みんな」が嫌い
だから僕の前で、「みんな言ってるよー」って言わないでおくれ。
マジョリティの正しさ
「みんな言ってるのが正しい」って言うのは何となく分かる。
マジョリティは結果論的に正しい。
(マジョリティ:多数派・大多数)
それは、『他人に付和雷同せず、「己の頭で考えた答え」の統計は、結果論的に良い方に向くことが多い』という意味だ。
流されている人の意見は、入ってないからな?
そんで、それはマジョリティにとっての良い方向だからな?
自分が、「マジョリティ」かどうか、確認しといた方が良いよ?
ワイドショーと世間
あと、「みんな」って言葉が入ってるときは、「叩かれる」「後ろ指を指される」ってのを回避しようとしてるようにも見える。
でもね、その「みんな」ってのは、何かをイメージしてるように見えるときがある。
そこで、「パッと浮かんだイメージ」なんだけど。
「テレビのワイドショーじゃね?」って。
あそこで「批判されること」ほど、恐ろしいものはないよね。
コメンテーターやら、司会者やらに、「自説」でもって、裁判官のように、「お前は間違っている」と断罪される感じ。
「世間様の代弁者」のごとく、「世間が黙っていないよ」って、言ってくる。
それも「みんな」って言葉と一緒か。
正義感
その言葉からは、「正義感」ってのも感じるんだ。
正義感は、スゴいことだ。
間違っていると言うことを指摘し、新たな視点を提供してくれる。
「明確さ」の力を持つ。
ただ、目の前のことにかじりつくだけなら、「猛犬」だ。
世に放たれれば、「処分対象」だ。
その正義感は、何のために使いたいのか?
あなたはそれで満足か?
何が言いたいの?
どちらにしろ、僕はてめえの意見が聞きてえんだ。
てめえが「どうしたいのか」聞きてえんだ。
人の意見じゃなく、良い子ちゃんぶるんじゃなく。
少しで良いから、必死に自分を出してみろよ!
って、たまに思う。