キミ、退屈なんでしょ?

このブログは、「当たり前」を深く追求する、見てくれた人の世界を一変させる、24時間365日出会える、「なかだみきと」のフロントエンドです。

究極的には納得しているかどうか

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「もっと、こうしたが良いんじゃないかな?」
「こっちの方が、楽な気がするよ?」
「それなんか、間違ってる気がするな」
「それって絶対うまく行かないよ」
「それで満足してたら、足下すくわれるよ」
 
日常で、人の話を聴いたり、見たりすると、違和感や可能性が見える。
 
コーチングを続けてきたせいかな。
 
ついつい、「どうにかしてあげたいなー」って思う。
 
例え、その人が望んでなかろうと。
 

 

望んでないときは、ほおっておいた方がむしろ良い。
 
それは僕がイヤだった経験があるから。
 
もし望んでないときにガンガン突っ込まれると、惹いてしまう。
望んでないタイミングで、腹を探られることほど、イヤなことはない。
 
可能性はあるよ。
 
でも変わりたくないと、その人が望んでいる。
 
その時ガンガンに突っ込むと、その人は結構閉じちゃう。
コミュニケーションを避けようとする。
 
そうなると、自分が相手の「こうした方が良いよ」に向けるエネルギーが膨大になってしまう。
 
それって、果たして自分がしたいことなんだろうか?
 
 
もう一つ。
自分がこっちが良いよって思った方向って、絶対じゃない。
 
こっちが良いよって方向に行ったとして、その先にあるのは「繰り返し」な気がする。
 
大事なのは、「変わること」ではない気がする。
 
例えば、お金持ちになった。
お金持ち前と、後では何が違うのか?
心の余裕が違うと思う。
でも、結局大事なのは「今をどう感じて、どう向き合っていたいか」と言うことだと思う。
 
結局、どんなフェース、ステージだとしても、大事なモノは、変わらない気がするんだ。
 
変わる変わらないに固執しても、あまり意味がない気がする。
 
だから、究極的には、例え「しんどい生き方をしている様に見えた」としても、その人が「納得している」なら、手助けは必要ない。
 
だから、違和感を感じていても、放置しておけば良い。
タイミングじゃないからね。
 
手助けを必要とするタイミングは、その人が知っているはずだ。
 
そんな感じで、僕は人を眺めている。